1989年12月20日。
パナマからコロンビアへ渡る船を無事に見つけることができた。
とは言っても、出港まで数日あるので、のんびり過ごすことにした。
夜になり、ホテルに戻り、いつものように寝ていると
夜明けには早すぎる時間に目が覚めてしまった。
「なにやら、外が騒がしい気がする」
そう思い外を見ると、轟音と共に無数のヘリコプターが飛び交い、
パナマシティを攻撃する様子が見えた。
ただごとではないことを理解する。
当初、アメリカ軍のミサイルばかりが飛んでいたが、
夜が明けるころには、地上からも応戦しはじめていた。
『パナマ侵攻』の始まりであった。
当時のアメリカ大統領、ジョージ・H・W・ブッシュが、
パナマ開放を大義名分に掲げて始まったこの侵攻。
当時のパナマの指導者である、ノリエガ将軍の身柄拘束が目的とされていたが、
本当の目的は、パナマ運河の利権の確保にあったとも言われている。
ホテルに、「外は危険だから、4日間は絶対に外出しないように」と言われてしまった。
そうはいっても、船会社に預けてきたバイクが心配でたまらない。
居ても立っても居られず、ホテルの忠告を無視して、タクシーで船会社に向かう。
幹線道路を走っているとき、何度もアメリカ軍の検問で止められる。
それも、トランクの床を剥がすほどの徹底ぶりである。
ふと街に目をやると、瓦礫の燃える匂いと共に、白い布で覆われた数多の遺体が目に入る。
どうやら相当な数の市民が犠牲になっているようだ。
船会社は、まだ無事だった。
しかし、一部の市民が暴徒化しており、略奪が始まっているらしく、
いつまでその会社が安全か、分からないとのこと。
無理を言って、ホテルまでバイクを届けてもらうことになり、ひとまずバイクは事なきを得た。
年を跨いで1990年1月3日、ノリエガ将軍の身柄が拘束されたとの一報が入った。
一刻も早くこの場所を離れ、一旦コスタリカへ戻ろうと思い、
バイクと共にパナマシティ脱出を試みる。
そう遠い距離ではないのだが、何度も何度も、アメリカ軍の検問で止められる。
その扱いは、完全に不審者に対するそれで、当然荷物は降ろされ、中身をすべて確認される。
酷いときは、パンツまで脱がされることもあった。
それまでの旅を記録した、カメラのネガも没収され、「こいつら何なんだ」という感じだ。
しかし僕には、米兵の眼差しが、”何か”に怯えているように見えてならなかった。
任務遂行のために、知らない土地で、顔も見たことない人間と戦っている。
死にたくないから、撃たれる前に撃つ。
こうしている彼らにも、祖国には帰りを待つ家族がいて、友人がいて…。
その眼差しに、恐怖と同時に、行き場のない切なさを覚えた。
そして、これが戦争なんだ。
そう感じた。
宗教やイデオロギーの対立とはよく言ったもので、
実際には、ごく一部の権力者が、自分たちの利益の為に国を動かすための方便であって、
こうして洗脳することで、本来は戦う必要のない人間同士が争っている。
僕にはそう思えてならなかった。
コスタリカへ戻る
幾度となく行われる、アメリカ軍の検問を耐え抜き、
やっとの思いでコスタリカへ生還したのは、18時を回ったころだった。
サンホセのホテルに辿り着いたとき、ようやく「生きてるな」と実感した。
翌日、街を散策していると、隣国では大変なことになっているのに、
コスタリカの市民は、何事もないように暮らしていることに驚いた。


「国境」って、何なのか。
そう感じずにはいられない。
アメリカの放送局の番組を見ていると、パナマ市民が星条旗を掲げ、
「アメリカが、パナマを開放してくれた」
と歓喜に沸いている映像が流れた。
しかし、昨日まで現地に居た僕は、こんな光景は全く目にしたことなかった。
こうしてプロパガンダに泳がされ、マインドコントロールされてしまうんだな、
と呆れかえってしまった。
僕は旅をする中で、良いことも悪いことも、この目でたくさん見てきた。
そうして自分自身で確かめたことは、何だって受け入れよう。
しかし、誰かに聞いたこと、メディアが報じていたことなど、
自分の目で確かめていないものは、あまり信用できない。
この一件で、特にそう感じた。
どうやって南米に渡るか
さて、パナマが通れないとなると、どうやって南米に渡ろうか。
パナマのお隣はコロンビアだが、ここもまたメデジンの関係で危険だ。
そうなると、コロンビアを諦めて、ベネズエラまで空路を使うほかなくなってしまった。
これが思いのほかスムーズで、計4日ほどで、人間・バイクともに移動することができた。
「これなら最初からコスタリカから送っていればよかった」
とすら思えるほどだった。
通常、紛争地帯の手前では、警官や軍に止められたり、入国を拒否されるもの。
当時は怖くてたまらなかったが、今となっては、
通常ではあり得ない、なかなか貴重な体験だったと思っている。
